川端道喜著『和菓子の京都』岩波新書119

 本書の魅力は、室町時代から明治維新までの400年に渡る京都御所と川端道喜との緊密な関わり合いの歴史の一端が川端家に残る歴代の史料をもとに解き明かされていることにある。御粽司(おんちまきし)として御所の儀式から毎日の生活に関わってきた京都の老舗の中でも、最も御所との関わりが深く長かった「「道喜」の歴史そのものが御所の歴史と密接に絡み合っているだけに、読む者への説得力は大きい。

 幕末期の京都御所の経済的な凋落ぶりは良く世間の知るところだが、すでに室町幕府政権下から明治維新まで、実際には商人である町衆(「六丁衆」)の今で言えば寄付やボランティアで朝廷の儀式や運営が成り立ていたことが理解される。京都人が、織田信長、豊臣秀吉や徳川家康を織田信長公、太閤殿下、大御所(家康亡き後後は権現様)と堅苦しく呼ぶの対して、天皇を「さん」付けで呼ぶのは、御所の維持運営が町衆の手で賄われていた歴史的な背景があるとの指摘は実に新鮮に響く。京都人が信長さん、秀吉さん、家康さんとは決して呼ばないのは、彼らの権力者としての絶対的な権力の優位と近寄りがたさが背景にあるのではないかと本書で著者は推測している。
 本書の随所で指摘された御所の困窮ぶりは、幕末期の御所の歳入に如実に示されている。幕末期の天皇家の歳入がおおよそ3万石、天皇家・皇族・公家全体でも11~12万石だったという。江戸時代の大名では加賀藩が100万石だったのを見ても、天皇家がいかに経済力を伴わない象徴的な存在であったことが理解される。それゆえに京都人は歴史的に長く自ら経済や労力を御所に提供してきたので、京都の商人には天皇は雲上人ではなかったという。天皇家が市民の手の届かない神格化され雲上の存在になったのは、明治維新で天皇が東京に移って天皇が権力を持ってからとの指摘にも頷かされるものがある。